匠美のペテルブルグ冒険記

第一回「憧れのワガノワバレエ学校へ留学」

 9歳で留学すること決意した私は、バレエの本やテレビで観るワガノワバレエアカデミーの美しい生徒にずっと憧れていました。チャンスは潮陵高校二年生の時に訪れました。栃木県でワガノワの留学生オーディションが行われることになりました。ヌレエフやバリシニコフなど映画の中のダンサーが学んだ地でロシアバレエを習得できるなんて信じられませんでした。オーディション合格からサンクトペテルブルグでの生活が始まるまで2か月しかありませんでした。ロシアへ初めて発った時、唯一知っていたロシア語は、「はじめまして!オーチン・プリヤートナ!」だけでした。

 担任となったのはマリインスキー劇場のプリマバレリーナから教師となったばかりのリューボフ・クナコワ先生でした。ロシアの国民栄誉アーティストの称号を持っている方です。子供の頃から日本のテレビや雑誌のキーロフバレエ特集で拝見しており、世界でもとても有名なバレリーナでした。中学生の時にレニングラード国立バレエが来日した際にも、東京で彼女が踊る「白鳥の湖」を観ていました。すぐに電話で日本にいる母に「私はクナコワ先生に習うことになったよ!」と喜びの報告をしました。後に彼女は、彼女は私のロシアのお母さんとなりました。

 踊りのプラクティカのクラスはソ連の伝説のバレリーナ、ナタリヤ・ドゥジンスカヤにみてもらうこととなりました。ソビエト時代には夫と共にマリンスキー劇場の芸術監督をしていた方で、テレビのインタビューでも知っていた雲の上のような存在の方でした。もうご高齢でしたが、彼女は美しく、ロシアの国民的スターでした。

 最初は脚を高く上げるワガノワメソッドに慣れるのはとても大変でした。それにロシアの舞台やレッスン上の床は傾斜しているのでバランスが取りづらいです。ロシア全土から選び抜かれた天才ダンサーに混じってのレッスンは毎日が戦いでした。バレエ学校には医者やマッサージ師がいたりと、プロフェッショナルの為の全ての設備が備わっていました。ロシア語クラスは週に2回程度で主にバレエテクニックの専門用語を学びました。

 寮はバレエ学校があるロッシ通りの裏にあり、買物は近くのネフスキー大通りか、マリインスキー劇場に行く途中にあるセンナヤ広場の市場でしていました。留学一年目はロシアのおせんべい「スーシキ」や、まんじゅうのような「プリャーニキ」にはまってとても太ってしまいました。

クラスメイトとも、もっと話をしたかったけれど、自分の下手なロシア語を聞かれるのが恥ずかしくてなかなか自分からは話しかけられなかったのです。今考えると、失敗を恐れずにもっともっと周りとコミュニケーションをとるべきだったなと反省しています。

第三回 「エルミタージュ劇場に舞う」

 ロシアでは基本的にスパルタ英才教育システムです。自分から教師にアピールしていかないとレッスンでも見てもらえません。試験の成績が悪かったり、太りすぎると退学なので、常に自分に厳しい生活を送っていました。私は日曜もアカデミーへ行き自習をしました。一人でレッスンしていたら、クラスの天才ターニャが現れ、私を見て「私もあなたと同じ仕事狂なのよ!」と言ってくれました。彼女は別の惑星からやってきたのだと思っていたので「私も一緒よ!」と言われ何だか嬉しかったです。

 バレエ学校の試験は緊張感でピリピリしています。マリインスキー劇場の芸術監督や教師達が目の前に座ります。試験が終わると廊下に全員の成績が貼り出されます。5段階評価で技術により5プラス、または4マイナスなど細かい採点がされます。

 二年目のエルミタージュ劇場の公演では、ロシアのレパートリー「人形の精」の主役を踊れることになりました。子供の時にテレビで観たことがあるこの踊りは憧れでした。愛らしいワガノワ生が二人のピエロと組んで踊るシーンが大好きでした。

 ピエロ役はクラスの男の子2名に決定しました。相手役もドゥジンスカヤ先生のおめがねにかなわないと、なかなか決まらないのです。最終的に私が彼らを強く推薦し、決定しました。色々なことが理想通りに運ぶように、ロシアでは自分の意志をしっかりと伝えアピールする必要が常にありました。

 エルミタージュ劇場での当日リハーサルでは脚が疲れないよう全力を出さずにいました。バレリーナの最大の見せ場の回転フェッテを私は本番通りにやらなかったのです。すぐにドゥジンスカヤ先生に呼ばれ「どうしてフェッテを回りきらなかったの?」と強く問い詰められました。私は「脚が疲れるから回らなかったけど本番では絶対にやりますから!」と答えました。彼女はとても心配していました。ソビエトが生んだ伝説のバレリーナの顔をつぶすわけにはいきません彼女と。彼女との約束どおり、本番では傾斜する舞台でなんとかフェッテを回りきりました。

 彼女はとても喜び、それ以来会うたびに何度も何度も「人形の精は素晴らしかった!!!」と絶賛してくれました。海外で生きていくのに必要なことは、これは誰にも負けないというものを一つでも持っていることだと思います。公演が終わると、ドゥジンスカヤ先生はお家に招待してくれました。そしてお食事をしながら、キーロフバレエのプリマ時代の映画を観せてくれました。居間には現役時代の写真も飾ってあり、どの女優よりも美しく、スターの品格がありました。「人形の精」の楽譜もプレゼントに貰い嬉しかったです。子供時代からテレビで観て憧れていた先生の普段の生活をみることができたのはとても貴重です。

第五回 「サンクトペテルブルグ国立大学へ入学~勉強地獄の始まり~」

 私が入学したサンクトペテルブルグ国立大学は旧レニングラード国立大学とよばれており、昔はレーニン、最近ではプーチン大統領やメドベージェフ首相の出身校として世界的に知られています。ジャーナリズム学部にした日本人は、私がたった一人でしたから、毎回の授業では教師達が日本についての質問を色々してきました。日本の政治や経済など全て知っていたわけではないので、自分で母国について勉強しなければならなくなり大変でした。授業はジャーナリストとしての基本知識を身につける為の13科目が必修でした。全てロシア語で世界とロシアの歴史や文学などを1から学ばなければなりませんでした。特に難しかったクラスはジャーナリズム基本理論活動という科目で専門用語が沢山出てきました。それらは一般のロシア人でも難しい言葉なので課題に出された本を読み理解しなければなりませんでした。それまではロシア人からロシア語がとても上手いと褒められていたので自分でもそう思っていましたが、大学に入るとそれは全くの勘違いだということが分かりました。本を読み、自分の言葉にしてプレゼンをする地獄の毎日が始まりました。

 ロシアの人々は日本が大好きなのです。大学ではいつもロシア人の学生や教師達が集まってきて私に沢山の質問をしました。帰りも一緒に帰ろうと誘われ、一人になりたいときは困りました。

 それぞれの授業は自分でノートを取らなければなりません。最初の二年間はなかなか上手くできませんでした。教師達があまりにも早口で説明するので、ロシア人生徒も困っていました。今考えるとその方法が語学能力を高めたと思っています。なぜなら耳をそばだて、話の中で一番重要な部分のみノートを取ろうと努めていると考えがまとまり集中力がアップするからです。

 大学に入ってからは勉強漬けの毎日となり、一日も早く卒業することを夢見ていました。それまでは美しさを問われていたのですが、今度は自分の意見を伝えられるということに価値が見いだされることとなったのです。外面が評価される世界から、内面が重要視される生活に一変しました。今1番欲しいものは「高いIQだ!」と思っていました。つめ込み知識で脳に膜がはったような状態で苦しみました。

 毎晩、「私はきっと朝目覚めたら髪の毛が全部抜けているはずだ・・・。」と思いながら眠りにつきました。ところが毎朝髪の毛はしっかりと頭にくっついていました。「思っているよりも自分は強いんだな」と実感しました。